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第2回 待降節
第2回 待降節
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2019年度
公開講座
北16条キャンパス
講座名称?演題等
講師?講演者等
期間
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藤のルーツ 第16回
戦後の展開
1945年8月15日の敗戦により、日本の教育は大変転を遂げました。終戦1か月後に文部省は「新日本建設ノ教育方針」を出し、「軍国的思想及び施策を払拭し平和国家の建設を目途として…国民の教養を深め科学的思考力を養い平和愛好の念を篤くし…」と宣言しています。
更にその1か月後の10月15日には、「私立学校における宗教教育の自由を認める訓令」を出し、私立学校で宗教教育を行うことを認めました。これにより、放課後に寄宿舎や修道院応接間などを使って希望者だけに行っていた藤の宗教教育も、正課に取り入れることができるようになり、翌年度からのカリキュラム検討に取り組みました。
この時期に注目すべきものに、女子教育の振興があります。1945年10月の新内閣の閣議で「女子教育刷新要綱」が示され、男女教育機会均等、教育内容の平準化等を基本方針とし、高等教育機関が女子にも解放され、大学における男女共学を実施することとされました。
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藤のルーツ 第15回
戦時中の学校
1940年4月1日には、教会を国家的統制のもとに置くために前年に公布された宗教団体法が施行されました。9月6日に教皇使節から上京を求められたキノルド司教は、同月15日に帰札した翌日に札幌在住の司祭たち全員を呼び集め、東京での話を伝えました。幾つか学校に関係することを記すと次の通り:(1)外国人教区長は辞任して、邦人と更迭すること、(2)日本の教会は外国から独立し、決して外国からもローマからも援助を受けてはならぬこと、(3)外国人である学校長は早速邦人と更迭しなければならぬこと、(4)日本の学校はみな無宗教を建前としているのであるから、学校の中に宗教的印を置いてはならぬこと、修道服もやはり宗教的印とみなすので、修道女たちは学校に出る時には俗服を着なければならぬこと、(5)外国人教職員は当分授業を続けてよいが、ただ語学の教授に限ること、そして漸次日本人と更迭してほしいこと、などでした。キノルド司教は、1940年10月に札幌代牧としての辞表を提出し、1941年...
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藤のルーツ 第14回
戦争へ向かう中で
1925年の開校の喜びと同時に初代校長の思いがけない帰天という哀しい試練のあとを引き継いだSr.クサヴェラは、開校直後の学校の教育と運営に全力を尽くしました。
1930年に第一回卒業式が行われ、117名が卒業しました。入学時には167名であったのに、5年間に50名もの生徒の病死や家庭の事情による退学。結核や脳炎などの病死が多く記録されています。また、卒業後の1年課程として家政補習科を開設する認可を得て、17名が入学しました。
1935年には、創立10周年記念式典と祝賀が荘厳かつ盛大に行われました。同窓会からの寄付によって、校庭に「奉安殿」(現在のマリア堂)が設けられて天皇?皇后両陛下の御真影が安置され、さらに、正門(南西角)が木の門柱から石の門柱になりました。
学内は平穏の内に過ぎていきましたが、1937年7月の盧溝橋事件以来、日本は中国との戦争に向かい、建築資材が高騰。計画していた札幌の藤...
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藤のルーツ 第13回
開校の喜びと試練
1920年8月に札幌に到着した3人のシスターたちは、早く日本の言葉、習慣、文化などに慣れようと努力し、日本語の勉強も始まりました。翌年8月には、第2のグループである3人のシスターたちが来日しました。6人の生活となり、力を合わせて学校開設という使命に向かって全力を尽くしました。
一方、敗戦国ドイツは巨額の賠償金支払いのため、1922年には財政的に破綻状態になりました。ドイツのマルクは外国で全く無価値となり、校舎建築のためにドイツから経済的支援を当てにすることはできなくなったのです。キノルド師は一人のドイツ人神父様を、アメリカに派遣するよう手配してくださいました。アメリカから送られてくる名簿に、シスターたちが1万通ほどの手紙を送り、貴重なご寄付が届きました。
学校開設の準備として、校長予定者のSr.ヨハンナ?ベルヒマンスはもう一人と一緒に1924年5月に東京に出かけ、雙葉高等女学校や聖心女子学院高等女学校、横浜紅蘭...
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藤のルーツ 第12回
初来日
1914年にドイツを出発して日本へ向かった4人のシスターたちが、第一次世界大戦のために航行を続けることができなくなり、スエズから故国ドイツへ戻ってからも戦争は思ったより長く続き、1918年11月にやっと終結しました。1918年春からスペイン風邪のパンデミックがヨーロッパだけではなく世界中を襲い、夥しい死者を出して1920年春に収束しました。
その収束を待っていたかのように、1920年5月31日に3人のシスターたちが北ドイツ?テュイネの本部修道院を出発し、日本へ向かいました。Sr.M.カンディダ、Sr.M.ジャン?ベルヒマンス、Sr.M.クサヴェラの3人です。フルダに立ち寄って、日本へ宣教師として派遣されるフランシスコ会のルカ?ベルニング神父様と共に、日本へ出発。ルカ神父様はテュイネの属するオスナブリュック教区の、当時のヴィルヘルム?ベルニング司教様の甥にあたる方です。
イタリアのトリエステでイタリアの汽船に乗り、長く暑い...
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藤のルーツ 第11回
第1回目の渡日の中断
1907年にドイツから来日し、札幌を中心に宣教活動を始めていたフランシスコ会の責任者であったヴェンセスラウス?キノルド神父は、北海道の宣教のために教育活動が必要であると考えました。そこで1914年に女子教育を行うために故国ドイツの女子修道会からの派遣を要請し、私たちの修道会「殉教者聖ゲオルギオのフランシスコ修道会」がその要請に応じてシスターを派遣することを決定。その年の7月9日に北ドイツのテュイネから、シスター?クサヴェラ?レーメを含む4人のシスターたちが出発しました。再び故国の土を踏むことも、愛する家族やシスターたちとの再会もない覚悟の出発です。
ドイツの真中あたりのフルダに寄り、そこから宣教師として日本へ派遣されるフランシスコ会の4人の司祭たちと合流。そしてイタリアのアシジに行き、そこからローマに行きます。ローマでは教皇ピオ10世の謁見を賜り、使命のために祝福をいただきました。その後、7月27日にナポリからドイツ船リュツォ...
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藤のルーツ 第10回
フランシスコ会再来日と北海道
前回は、潜伏していたキリシタンが1865年に長崎大浦天主堂のプチジャン神父に名乗り出たこと、そこから全世界に日本での奇跡的な信徒発見のニュースが伝えられたこと、欧米からの圧力によって1873年にキリシタン禁制の高札は撤去され、キリスト教は解禁されたことを書きました。
外国人居留地から自由に外に出ることが許されていなかったパリ外国宣教会の宣教師たちにも、内地旅行が緩和され、教会は急速に進展し始めました。宣教師たちは村から村へと巡り歩き、道々目にする悲惨な状況にある病人、子供、老人などに心を留めて小さな居場所を作りました。その世話のためにフランスから修道会を招き、医療、教育、福祉などの事業に発展させていきました。
1891年に日本の教会は、長崎、大阪、東京、函館の4つの司教区に分けられ、函館元町教会の主任司祭だったベルリオーズ師が、函館教区の司教に叙階されました。南樺太と千島を含む北海道全域と新潟と東北...
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藤のルーツ 第9回
日本での再宣教開始
前回は、16世紀半ばのキリスト教と東洋との出会いでした。日本に伝えられたキリスト教は多くの有力武士の信徒も獲得し、またさらに大勢の貧しい農民たちも獲得するにいたりました。
時の権力者たちにとって、キリスト教がもたらした大きな脅威は、信徒たちが身分の違いを超え、さらに支配者の垣根を越えて結びついていたことです。そこに権力者が危険を感じたのは想像に難くありません。
キリスト教の渡日から50年ほど経て始まったキリスト教迫害は、世紀が改まって17世紀になると、宣教師たちに対する迫害の厳しさはますます度合を増します。宣教師の国外追放令が出されても、日本に残留して信徒たちの霊的な世話をする宣教師たち、密入国を試みて成功してもすぐに見つかり処刑される宣教師たち…。大勢の宣教師たちが命をキリストのために捧げました。そして日本人信徒たちも求められるまま仏教徒として寺の檀家に登録し、二重の生活をして生き延びました。宣教師不在の日...