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藤のルーツ 第8回
東洋への宣教活動
前回は、初代教会の遭遇した迫害についてでした。その後、キリスト教がローマ帝国において公認された4世紀から、教会の発展期が始まりました。長い中世はそのような時代であったといえるでしょう。
教会の勢力が強くなるにしたがって、教会は世俗的な力も強くなり、それによって聖と俗との均衡が危うくなることがありました。そのような時代にも多くの聖人たちが現れ、教会の刷新に力となりました。アシジの聖フランシスコもそのような聖人の一人です。
また、教会の刷新運動としてプロテスタンティズムが生まれ、カトリック教会はそれに対抗して自らを刷新する運動を強くしました。アヴィラの聖テレジアや十字架の聖ヨハネによるカルメル会刷新運動や、聖イグナチオ?ロヨラによるイエズス会創立は、その代表と言えます。病者の世話や貧者の救済?教育などのためにも、多くの修道会が創立されました。
また、東洋やアメリカ大陸への航路が発見されるなど、新...
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藤のルーツ 第7回
ローマ時代の殉教者たち
今回は、1世紀から4世紀初頭の間のローマ時代における殉教者たちに焦点を当てたいと思います。ローマ帝国は諸国?諸民族を支配する広大な帝国となり、多民族帝国の方針として、支配した民族や国の宗教に寛容な立場をとっていました。それなのに何故、キリスト教徒たちが迫害され、殉教していったのでしょうか?
まず挙げられるのは、多神教社会であったローマ帝国において、キリスト教は厳密な一神教であり、偶像に献香したり、偶像に供えられた食物を食べるのを拒否したこと。また、皇帝崇拝が求められるようになった時、それを断固として拒否したことがあげられます。皇帝崇拝は、帝国に対する忠誠の絶対的な要件として求められました。
さらに、キリスト教徒は身分の違いに関わらず、兄弟姉妹として一致していたこと。特に、当時の厳しい奴隷制社会の中で、奴隷が自由民と同じ集いに参加し、同じ仲間として加わることができたことは、理解されませんでした。
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藤のルーツ 第6回
キリスト教の源流〈ペトロとパウロの殉教〉
イエスの受難?復活?昇天という一連の出来事の目撃者であり、証人となる使命を与えられた弟子たちは、聖霊降臨という不思議な出来事(新約聖書「使徒言行録2章」参照)によって、無知な臆病者から大胆で雄弁な証人になり、イエス?キリストを伝え始めます。
ペトロは、イエスが捕らえられた時に逃げ、イエスの弟子であることを3度否定します。しかし、彼は聖霊降臨の後に大変革を遂げ、イエスの筆頭弟子として、主に各地のユダヤ人たちにイエスを伝え歩き、最後はローマでネロ皇帝による迫害で紀元65年頃殉教します。バチカンの丘のふもとの競技場で十字架刑に処され、その遺骨はキリスト教徒たちによって、競技場のすぐ隣の墓所で大切に崇敬されました。4世紀にコンスタンティヌス皇帝はキリスト教を公認した後、このペトロの墓の上に聖堂(バジリカ)を建てます。16世紀にこのバジリカを大きなものに建て替えたのが、現在の聖ペトロ大聖堂です。第二次世界大戦中に教皇...
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藤のルーツ 第5回
祈りと説教と奉仕
今回は、教皇に承認された兄弟たちの新しい生活の中で、フランシスコの心に生まれた内的な葛藤について触れたいと思います。フランシスコは求めていた新しい生活、神との深い交わりの中に生きる生活、山奥で昔からベネディクト会の修道士たちが隠遁所として使っていた洞穴などに籠った祈りの生活――このような生活に心から魅かれながら、度々、隠遁所に出かけて祈りのうちに過ごしていました。そして、生涯このような生活を送ることへの強い憧れも感じていました。
一方、彼の心には世俗的な名誉や富や快楽に溺れた生活をしている当時の人々に、神の愛を伝える望み、その使命感も生まれてきていました。福音に従った新しい生活へ人々を招き、そして、ハンセン病患者など世の中で疎んじられている人々への愛の奉仕に生きる望みも断ちがたいものでした。
彼はこのような心の葛藤の中で、神が彼に望んでおられる道を知りたいと考えていました。そこで、ある時、ポッジョ?ブストーネと...
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藤のルーツ 第2回
フランシスコ会家族
今回は、藤学園の設立母体である「殉教者聖ゲオルギオのフランシスコ修道会」が属している、「フランシスコ会」という大きな家族についてご紹介します。
修道生活のようなものは、世界の殆どどの宗教にもあると思います。キリスト教の修道生活は、砂漠に隠遁生活を始めた3世紀の聖人、エジプトの聖アントニオという人から始まると言われています。4世紀になると、隠遁生活ではなく、共同体生活をする修道院生活が始まります。
6世紀になると、聖ベネディクトが共同生活を基盤とする修道生活を始め、彼の書いた修道生活の戒律が、その後の修道生活の基本として用いられました。ベネディクト会は「祈りかつ働け」をモットーに、修道院に定住する生活を送りました。
13世紀には、聖フランシスコと聖ドミニコによって、定住生活ではなく、托鉢や説教をして歩きまわる新しい修道会が生まれたのです。ベネディクト会の修道院が、都市から離れた静かな田園や山...
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藤のルーツ 第4回
教皇への忠誠
前回は、聖フランシスコの精神をご紹介しました。「行って、私の家を建て直しなさい」というキリストの呼びかけを聴いて、幾つもの壊れかけた教会を修復し、すべてを捨てて貧しくなり、謙遜に愛深くハンセン病患者たちのお世話をしたりしているうちに、仲間たちが加わってきたのでした。
今回は、その増えてきた仲間たちとの新しい生活を、教会から正式に認めていただくことを求めて、フランシスコは簡単な規則を作って教皇イノチェント3世のもとに承認を願い出たことです。その原始会則と呼ばれるものは、イエスの命じることをそのまま実行し、イエスの生活を完全に模倣しようというフランシスコの精神が書かれた非常に簡単なものです。フランシスコは、自分たちの新しい生活を教皇の承認のもとに行いたいと考えました。
当時、一切を所有せず全く清貧に生き、托鉢や宣教活動を行っている団体がいくつも現れていました。ワルド派が有名ですが、教会からは異端とされていました。彼らは...
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藤のルーツ 第3回
フランシスコの精神
今回は、藤学園の設立母体である「殉教者聖ゲオルギオのフランシスコ修道会」の霊的父である聖フランシスコの精神についてご紹介します。
フランシスコは12世紀の終わり頃、イタリア中部のアシジという町に裕福な織物商人の息子として生まれました。彼が生まれた時、ジョヴァンニ(ヨハネ)という名で洗礼を授けられました。その時商用でフランスに出かけていて不在だった父親が帰ってくると、フランス好きの彼は息子をフランチェスコと呼びました。それ以来、この息子はフランチェスコと呼ばれ、騎士になることを憧れる青年になりました。
当時は町と町との戦いが絶えず繰り返されており、フランチェスコは何度も立派な装いで戦いに出かけました。隣の大きな町ペルージアとの戦いに負けて捕虜になったフランチェスコは、捕虜として囚われていた間に病気になり、家に帰ってからも療養生活をしていました。その間に、単なる世俗の騎士になることではなく、真の王であるキリストに...
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藤のルーツ 第1回
藤の設立母体修道会の始め
藤学園は2015年に創立90周年を迎えます。記念事業の一つとして、2012年から「藤のルーツを学ぶ旅」を行なって、教職員、卒業生などを中心に、藤という学校の原点ともいうべきところを訪れています。
1920年に北ドイツの寒村テュイネ村にある女子修道会「殉教者聖ゲオルギオのフランシスコ修道会」から、3人の修道女が札幌に来ました。1907年に札幌に来た宣教師ヴェンセスラウス?キノルド司教様の依頼によって、女子のための学校を始めるためでした。
その当時、札幌には4つの高等女学校がありました。いずれも4年制で、男子の中学校(5年制)の教育より多少レベルが低いと考えられていました。女子の学習意欲は強く、4つの高等女学校では入学しきれないほどの志願者たちがいました。女子に高い教育の機会を与えることによって、北海道の向上を図ろうと考えたのがキノルド司教様でした。
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【310直播】刺繍バッグの制作(2年生「テキスタイル工芸実習」)
今年度「テキスタイル工芸実習」では,刺繍つきのバッグを作りました。
型紙からおこし,表生地は6色のうちから好きな色を選び,女の子がプリントされた既製の生地に刺繍を施し,パーツを組み立ててバッグを作り上げました。
学生の作品たちです。
A4サイズのファイルが入るバッグが出来上がりました。
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カトリック大学連盟加盟校
カトリック大学連盟加盟校
310直播
天使大学
仙台白百合女子大学
清泉女学院大学
東京純心大学